LOGIN第四話 三枚の千円札
四月三十日の夜、私は白い封筒を座卓に置いた。 「家賃。四月分」 久世は風呂上がりで、首にタオルをかけたまま封筒を見下ろした。 「……まだ五日しか住んでないだろ」 「だから日割り。六千六百六十七円。端数は切り上げた」 「細かい」 「言ったでしょう」 久世は封筒をつまみ上げて、重さを確かめるみたいに小さく振った。中で小銭が鳴った。 「第一条だから」 「わかってる」 それだけ言って、封筒を持って自分の部屋へ入っていった。 受け取った。ちゃんと受け取った。私は少しほっとして、二階に上がった。 * 家事の当番は、署名のあとにじゃんけんで決めた。負けた私が、最初の一週間。共用部分の掃除と、お風呂と、ゴミ出しと、共用のタオルの洗濯。 荷解きの続きで、連休に入るまでは手が回らなかった。だから五月三日の朝に、まとめて片付けるつもりだった。 八時に起きて、階段を降りた。三段目が鳴った。 風呂場の戸を開けると、床も浴槽も、もう濡れて光っていた。洗剤の匂いが、まだ残っている。廊下の板の間は拭いてあった。玄関マットはまっすぐ直されて、ゴミ箱には新しい袋がかかっていた。 居間では、久世が新聞を読んでいた。紙の新聞を取っている同世代を、私は初めて見た。 「……お風呂、洗った?」 「目が覚めたから」 「今週の当番、私なんだけど」 「知ってる」 新聞をめくる音。 「知ってるなら、なんで」 「暇だった」 暇だからといって人の当番をする人が、どこにいるんだろう。 その日の午後、洗濯機を回そうとしたら、共用のタオルはもう乾いて、脱衣所の棚にたたんで並んでいた。角まできっちり揃っていた。 翌朝はゴミの日だった。七時に玄関を出ると、集積所の網の下に、うちの袋がもう置いてあった。 三回続けば、偶然とは言わない。 * 五日の夜、私は契約書の控えを持って居間に降りた。 「第二条違反です」 座卓の向こうで、久世が顔を上げた。 「家事は週替わりの当番制。今週は私の週。なのに久世くんが、お風呂とタオルとゴミ出しをやった。三回」 「やったな」 「附則により、三千円」 言いながら、自分でも少しおかしいとは思っていた。家事をやってもらって、罰金を取る。普通なら、お礼を言うところだ。 でも、素直にお礼を言ったら、向こうの思うつぼのような気がした。私の家事を信用していない。だから先に片付けてしまう。そう考えると、全部つじつまが合う。 法務部にも、そういう人はいる。任せた仕事を、結局自分でやり直してしまう人。悪気がないぶん、たちが悪い。 久世は何も言い返さなかった。自分の部屋から財布を持ってきて、千円札を三枚、梅干しの瓶に入れた。一枚ずつ、丁寧に。 空っぽだった瓶の底で、三枚の札がゆるく丸まった。 「安いもんだな」 「……次は、ちゃんと自分の週だけやって」 「わかった」 「その次の私の週も」 「わかってる」 わかっている人の返事じゃない、と思った。 * だから、次に私の当番が回ってきた週の日曜日、目覚ましを五時半にかけた。 窓の外はまだ青白かった。どこかで、鳥が一羽だけ鳴いている。カーディガンを羽織って、音を立てないように階段を降りた。三段目をまたいで、四段目に足を下ろす。 勝った、と思った。この時間なら、さすがに。 台所の手前で、足が止まった。 縁側のガラス戸が、少しだけ開いていた。朝の冷たい空気と一緒に、コーヒーの匂いが流れてくる。 縁側に、久世が座っていた。膝の上に厚い本を開いて、湯気の立つマグカップを横に置いて。 その横顔に、黒い縁の眼鏡がかかっていた。 眼鏡をかけた久世を、私は初めて見た。その日の夜、私は便箋を一枚持って居間に降りた。 「覚書です」 久世は座卓で、テレビのニュースを見ながらいちごのへたを取っていた。私が差し出した紙を、手を拭いてから受け取る。 第二条に関する覚書 一 平日朝の家事(ゴミ出し、風呂掃除)は、当番にかかわらず甲が行う。 二 夜間および休日の家事(共用部分の掃除、共用タオルの洗濯)は、当番にかかわらず乙が行う。 三 前二項に定める家事を行った場合、附則は適用しない。 「当番制、やめるのか」 「やめない。分け方を変えるだけ。どうせ朝は久世くんのほうが早いんだから、朝の家事は朝の人がやればいい」 「三項は」 「これがないと、久世くんが毎週罰金を払うことになるでしょう」 久世は便箋を持ったまま、少し黙った。それから、座卓の端に転がっていたボールペンで、甲の欄に名前を書いた。 「最初から、こうすればよかったな」 「それは、最初に言ってくれればよかったの」 「……そうだな」 珍しく素直だった。拍子抜けして、私は乙の欄に名前を書くのを一拍遅らせた。 久世が、へたを取り終えたいちごの皿をこちらへ押した。 「食う?」 第九条、と言いかけて、やめた。いちごは食事ではない。たぶん。 ひとつつまむと、冷たくて、少し酸っぱかった。 本当は、聞きたいことがあった。 あの付箋の日付。入社した年の秋。どうして、あのころから私に質問を回しはじめたのか。どうして、それまでは一度も話しかけてこなかったのか。 口を開きかけて、閉じた。 第十条。甲乙は、互いの過去に干渉しない。 自分で書いた条文だった。踏みこまれたくないことがあるから、書いた。元彼のことも、中野の暗い部屋で過ごした六年のことも、この人には知られたくなかった。 だったら、私も聞いてはいけない。 「……おいしい」 それだけ言って、もうひとついちごをつまんだ。久世は「そうか」と言って、テレビに目を戻した。 * 月曜日、社内便で営業部から書類が回ってきた。 新築マンションの販売委託契約書。いつものように、余白に赤字の質問が並んでいる。三つ。どれも、言われてみれば確認しておくべきところだった。 最後の質問の下に、一行だけ、赤字ではない字があった。黒のボールペンで、少し小さく。 ――いつも助かってる。 名前はなかった。なくても、誰の字
声をかけるか迷っていると、久世のほうが先に気づいた。 「……早いな」 眼鏡の奥で、目が少し丸くなっていた。驚いた顔も、初めて見る。 「そっちこそ」 「いつもこのくらいだから」 「いつも?」 「祖母がそうだった。五時に起きて、朝のうちに家のことを全部済ませる。一緒に住んでたら、うつった」 それで、と思った。お風呂も、タオルも、ゴミ出しも。私が起きるころには、この人はもう三時間近く動いていたことになる。 「……眼鏡なんだ」 「会社ではコンタクト」 久世は少し決まり悪そうに、つるに触れた。外すかと思ったけれど、外さなかった。 黒い縁の眼鏡ひとつで、ずいぶん印象が変わる。人に囲まれているときの隙のなさが消えて、どこか学生のころの顔が透けて見えた。 この顔を、営業部の誰も知らないのだと思った。思ってから、どうしてそんなことを考えたのか、自分でもわからなかった。 「コーヒー、いる?」 「……いただきます」 久世が台所へ立った。私は縁側の端に腰を下ろした。板が、朝の冷たさを吸っていた。 戻ってきた久世は、マグカップを私の横に置いて、座布団ひとつ分あけて座った。 一口飲むと、甘かった。何も聞かれなかったのに。 膝の上の本が目に入った。『不動産取引の法律実務』。法務部の私の机にも、同じ本がある。ただ、久世のそれは、ページの横から色とりどりの付箋がはみ出して、背表紙が割れかけていた。 「営業なのに、そんなの読むの」 「営業だから読む」 「わからなければ、法務に聞けばいいじゃない」 「聞いてる」 久世は付箋のひとつを開いて、本をこちらに向けた。 余白に、ボールペンの小さな字で書きこみがあった。 ――「相当期間」は通常二週間~一ヶ月。相手方が個人なら長めに見る。(真柴) ――特約は消費者契約法十条に注意。無効とされた例あり。(真柴) 息が止まった。 私の言葉だった。赤字の質問が届くたびに、私が返してきた答え。「了解」の二文字しか返ってこなかった答えが、ここに書き写されていた。 「……これ」 「真柴の答えが、いちばんわかりやすいから」 久世はマグカップに口をつけた。 「ほかの人に聞くと、ケースバイケースで終わる。真柴は、なんでそうなるかまで書いてくれる。だから、わからないところは真柴に回してた」 粗探しだと思っていた。嫌がら
第四話 三枚の千円札 四月三十日の夜、私は白い封筒を座卓に置いた。 「家賃。四月分」 久世は風呂上がりで、首にタオルをかけたまま封筒を見下ろした。 「……まだ五日しか住んでないだろ」 「だから日割り。六千六百六十七円。端数は切り上げた」 「細かい」 「言ったでしょう」 久世は封筒をつまみ上げて、重さを確かめるみたいに小さく振った。中で小銭が鳴った。 「第一条だから」 「わかってる」 それだけ言って、封筒を持って自分の部屋へ入っていった。 受け取った。ちゃんと受け取った。私は少しほっとして、二階に上がった。 * 家事の当番は、署名のあとにじゃんけんで決めた。負けた私が、最初の一週間。共用部分の掃除と、お風呂と、ゴミ出しと、共用のタオルの洗濯。 荷解きの続きで、連休に入るまでは手が回らなかった。だから五月三日の朝に、まとめて片付けるつもりだった。 八時に起きて、階段を降りた。三段目が鳴った。 風呂場の戸を開けると、床も浴槽も、もう濡れて光っていた。洗剤の匂いが、まだ残っている。廊下の板の間は拭いてあった。玄関マットはまっすぐ直されて、ゴミ箱には新しい袋がかかっていた。 居間では、久世が新聞を読んでいた。紙の新聞を取っている同世代を、私は初めて見た。 「……お風呂、洗った?」 「目が覚めたから」 「今週の当番、私なんだけど」 「知ってる」 新聞をめくる音。 「知ってるなら、なんで」 「暇だった」 暇だからといって人の当番をする人が、どこにいるんだろう。 その日の午後、洗濯機を回そうとしたら、共用のタオルはもう乾いて、脱衣所の棚にたたんで並んでいた。角まできっちり揃っていた。 翌朝はゴミの日だった。七時に玄関を出ると、集積所の網の下に、うちの袋がもう置いてあった。 三回続けば、偶然とは言わない。 * 五日の夜、私は契約書の控えを持って居間に降りた。 「第二条違反です」 座卓の向こうで、久世が顔を上げた。 「家事は週替わりの当番制。今週は私の週。なのに久世くんが、お風呂とタオルとゴミ出しをやった。三回」 「やったな」 「附則により、三千円」 言いながら、自分でも少しおかしいとは思っていた。家事をやってもらって、罰金を取る。普通なら、お礼を言うところだ。 でも、素直にお礼を言ったら、向こうの思うつぼの
月曜の夜、浜松町の駅裏にある喫茶店で、久世は私の草案を読んだ。A4で二枚。前の晩、三時まで直していた。 同居契約書 久世怜司(以下「甲」という)と真柴紗月(以下「乙」という)は、甲の所有する家屋における共同生活について、以下のとおり合意する。 第一条 乙は甲に対し、家賃として毎月末日までに金四万円を支払う。光熱費は甲乙折半とする。 第二条 家事は週替わりの当番制とする。 第三条 甲乙は、互いの私室に立ち入らない。 第四条 甲乙は、社内において同居の事実を秘匿する。 第五条 甲乙は、異性を家に招き入れない。 第六条 甲乙は、体調不良の際は速やかに申告する。 第七条 甲乙は、互いに恋愛感情を持たないものとする。 第八条 甲乙は、互いを苗字で呼ぶ。 第九条 食事は各自で用意する。 第十条 甲乙は、互いの過去に干渉しない。 第十一条 本契約の期間は、締結の日から翌年三月三十一日までとする。 第十二条 本契約に定めのない事項は、甲乙協議のうえ定める。 附則 本契約に違反した者は、一回につき金千円を支払う。久世はコーヒーに口もつけずに、一条ずつ指でなぞっていった。「第一条。四万は多い」「中野で八万二千円払ってたの。半分以下だから、むしろ安い」「固定資産税、たいしたことないぞ」「部屋を借りるんだから、家賃は払う。そこは譲らない」久世は少し黙って、それから「わかった」と言った。「第三条。廊下と階段は私室に含まれる?」「含まれない。共用部分」「縁側は」「共用」「第九条。作りすぎた場合は」「各自で処理して」「もったいないな」「それは久世くんの問題でしょう」「第十一条。一年じゃないんだな」「年度で区切ったほうが、更新の判断がしやすいから」聞かれるたびに答えながら、私は少しだけ感心していた。社内の書類で見る赤字の質問と、同じ目のつけどころだった。曖昧なところを、ひとつずつ正確に突いてくる。腹は立つけれど、言われてみれば、どれも書き足したほうがいい。私は手帳を開いて、修正点を書きとめた。第一条から第十二条まで、久世はほとんどの条文に何かを聞いた。ひとつを除いて。第七条のところで、指が止まった。止まって、何も言わずに、次の第八条へ進んだ。恋愛感情を持たないものとする。聞くまでもない、ということなのだろう。私だってそ
約束は土曜の十一時、小田急線の豪徳寺駅だった。 見るだけ。決めるわけじゃない。 この三日間、そう言い聞かせてきた。断る理由なら十個は思いつく。同期で、異性で、しかも私を嫌っている人の家に住むなんて、普通に考えればありえない。なのに、十一万のユニットバスと天秤にかけるたび、断る理由のほうが少しずつ軽くなっていく。それが自分でも情けなかった。 改札を出ると、久世はもう来ていた。 グレーのパーカーにジーンズ。スーツ姿しか知らなかったから、一瞬、誰だかわからなかった。 「……早いね」 「家、近いから」 それだけ言って、歩き出す。私は半歩うしろをついていった。 商店街を抜けると、急に静かになった。生け垣の続く細い道を、自転車の親子がゆっくり追い越していく。どこかの庭で、沈丁花がまだ匂っていた。 「駅から何分?」 「八分」 「会社までは」 「乗り換え一回で、四十五分くらい」 聞けば答えが返ってくる。それ以上は返ってこない。会社の廊下と同じだ。 「ここ」 久世が足を止めたのは、黒い板塀の前だった。 古い家だった。木造の二階建てで、瓦屋根が春の日差しを鈍く跳ね返している。玄関までの短い飛び石の横に、小さな庭があった。手入れが行き届いている、というほどではないけれど、雑草はきちんと抜いてある。 「お祖母さんの家って言ってたよね」 「三年前に亡くなって、俺が継いだ」 「……そうなんだ。ごめんなさい」 「なんで謝る」 久世は鍵を回しながら、少し不思議そうな顔をした。 中は思っていたより明るかった。廊下の床板はところどころ色が違って、何度か張り替えたのがわかる。台所には使い込まれた鍋が並び、壁には手書きの予定が書きこまれたカレンダーが掛かったままだった。三年前の、十一月のページ。 私が見ているのに気づいたのか、久世が言った。 「外せなくて」 「うん」 それ以上は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。 一階には台所と居間と、久世の部屋。居間の奥は縁側になっていて、ガラス戸の向こうに庭が見える。 「部屋は二階。三つあるから、好きなのを選んで」 階段は急で、一段ごとに小さく軋んだ。 二階の廊下に、襖が三つ並んでいる。久世はいちばん奥の襖を開けた。 六畳の和室だった。南側に大きな窓があって、レースのカーテン越しに、光がまっすぐ畳の上
第一話 砂糖とミルク、ひとつずつ不動産会社に勤めていて、住む部屋がない。笑い話にするには、少し切実すぎる。昼休み、社食の隅でスマホを開くと、不動産サイトのお気に入りがまたひとつ灰色になっていた。成約済み。昨夜、内見の予約を入れようか迷っているうちに、誰かが決めてしまったらしい。「紗月、顔が死んでる」向かいに茉莉がトレーを置いた。今日の日替わりは鯖の味噌煮で、彼女はそれには目もくれず、私の画面を覗きこむ。「まだ決まらないの?」「決まらない」「期限、いつだっけ」「四月三十日」あと三週間と少し。口に出すと、思っていたより短い。今の部屋は中野の、築四十二年のマンションだ。駅から七分、家賃八万二千円。日当たりは悪いけれど、入社した年からずっと住んでいる。一月の終わりに管理会社から封書が届いて、建て替えが決まったと知らされた。立ち退き料は出るし、手続きにも問題はない。仕事柄、通知書を三回読み返して、穴がないことまで確かめてしまった。穴がないのが、いちばん困る。「同じくらいの条件なら、あるでしょ」「あった。先月までは」春の引っ越しシーズンに、同じ家賃で同じ広さを探すのがどれだけ無謀か、この一ヶ月で嫌というほど学んだ。少しでも条件がいい部屋は、内見の前に埋まる。埋まらない部屋には、埋まらない理由がある。北向きの一階、線路沿い、ユニットバスで十一万。「いっそ実家から通えば?」「静岡から浜松町まで?」「新幹線通勤の人、いるらしいよ」「定期代、会社が出してくれると思う?」茉莉は鯖をほぐしながら、出さないね、と笑った。総務部の彼女にそう言われると、本当に出ない気がしてくる。*午後は、来週締結予定の賃貸借契約書のチェックでつぶれた。法務部の私の席からは、フロアの反対側にある営業部の島がよく見える。見たくなくても見える。久世怜司は、今日も人に囲まれていた。電話を肩に挟んだまま後輩の資料に付箋を貼り、通りかかった部長に軽く頭を下げ、受話器を置くと同時に誰かの冗談に笑う。笑うと、目尻が少し下がる。そういう顔を、私は遠くからしか見たことがない。同期入社で、七年目。研修のグループも同じだった。なのに、まともに話した記憶がほとんどない。彼が法務に回してくる書類にだけ、赤字の質問がびっしり付いてくる。「第九条の『相当期間』は何日を想定していますか」「







